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審美歯科 熊本の本音

地方に延びていく道路網は、沿線にガソリンスタンド、レストラン、モーテルなどのサービス産業を栄えさせ、郊外には新興住宅地が建設されていった。
F社の流れ作業は、能率や生産性向上研究の専門家F・Tの理論を実践したもので、このテイラー・システムによって一九二○年代のアメリカの製造業は飛躍的に上昇していく。
労働者人口がほとんど増えないのに生産量は二倍となったのだ。 このころ発展した町の代表格が、ロサンゼルスだった。
郊外の居住区やショッピングセンターがハイウェイで結ばれ、広域都市という概念が現実のものとなった。 都市の中心部に劣悪なスラムを残したまま、快適な新しい住宅地が郊外に広がり、階級による住み分けが進んだ。
貧しい黒人やマイノリティが「インナーシティ」と呼ばれる、都市の中心部に取り残されていき、貧困や犯罪の温床となったのもこのころだ。 一九二一年から二五年までの間に売れた新車の半分は、T型Fである。
ミシガン州の貧しい農民の子・Fは、富を築いて国民の英雄となり、大統領候補の立場にもなっていく立志伝中の人物である。 一九二九年にはアメリカ国民の四・九人に一人が自動車を所有し、そのことはすなわちアメリカの夢の実現を意味していた。
自動車を持つことは中産階級であることのシンボルであり、家や家電製品を持つことよりも意義のあることだったのだ。 風呂のない家にも自動車があり、事実、二○年代の終わりには風呂桶の数よりも自動車の台数のほうが多くなっている。
仕事をしている時にも株価の動向が気になる人々一九二○年代の中ごろに株取引の新兵器として登場したのが、「TH」と呼ばれる相場受信器だった。 この原型はEが発明したといわれるが、取引所から証券会社などへ株価情報が電送され、紙テープに表示された情報が次々と繰り出される装置だ。

電話回線を通じて、THが設置されたどの場所でも、株価の推移を見ることができる。 狂騒の一九二○年代といわれるこの時代、アメリカの国民総生産は年に五%ずつ成長しつづけ、しかもこの間にインフレはほとんどなく、一○年間で一人当たりの所得は三○%以上増えた。
勃興した中産階級の家では、自動車、ラジオ、蓄音機、洗濯機、掃除機、ミシン、電話の七つの文化製品があるのが普通になっていた。 大多数の人々が生きるための生活必需品以外の商品を購入することができ、レジャーを楽しむ金銭的余裕があるという社会は、世界史上初めてであったと分析する歴史学者もいる。
人々はレストランや美容室を盛んに利用するようになり、都市住民は平均週一回、映画を観に行った。 流行の既製服、腕時計、缶詰めやピン詰めの食品、耐熱ガラスの食器が容易に手に入ったのもこの時代だ。
このころは、ホームヘルパーが市場が終わるまで出勤してこないとか、ウォール街の清掃夫は株式新聞しか拾わない、などとさまざまな陰口を叩かれていたという。 二○年代後半には、THは映画館やレストランのみならず、客船のロビーにも置かれるようになり、大衆の株式熱を高めていく。
いい料理人を雇うには配膳室にTHを置かなければならないとまで言われ、仕事中にTHから目を離せない人がそこかしこに出現した。 今のオフィスで仕事中にネットの株にうつつを抜かしたり、経済ニュースを専門とする日経CNBCが主要なホテルの客室で必見のTVチャンネルになっているのと同じ現象とは、今も昔もウォール街の格言である。
「ベルボーイみたいな者まで参入するようになったら、市場から逃げ出せ」ということなのだが、逃げ出せなかった人間がいかに多かったか、これらの逸話が教えてくれている。 繁栄は永遠に続くと思われていた一九二八年の夏、大統領選の渦中で、FVはこう演説していた。

「われわれアメリカ人はいかなる国よりも、かつてなかったほど、貧困を打倒する最後の勝利に近づきつつある。 救貧院はアメリカから姿を消そうとしている。 われわれはゴールにはまだ達していない。 しかし、過去八年の政策を進める機会を与えられて、神のご加護のもとに、この国から貧困が消滅する日をまもなく見ることになるだろう」。
多くの人は本当にそう思っていた。 二○年代には、二四年と二七年にわずかに景気は後退の懸念を見せたけれど、アメリカが目覚ましい経済成長をつづけていたのは事実だった。
一九二七年の十一月には、Fの新車A型車の発表を見ようと、一日に一○○万人いた。 家具の七○%、ラジオの七五%、ピアノの九○%も同様だった。
販売金融会社がいくらでも金を貸してくれた。 一九二○年にわずか一○○社だった販売金融会社は二八年には一○○○社を超えている。
製造業者は、クレジット買いによる需要の増加を当てこんで、投資を拡大していった。 不景気になって借金を返せなくなる人が増えると、果敢な投資が裏目に出、一転して損失が積み上がっていくこととなる。
これらの商品のすべてを諦め、生活必需品にも事欠き、一杯の無料スープのために長い時間並ばなければならない時代がやってくることとなる。 よほどの想像力がなければ、消費万能の二○年代に暮らした普通の市民がそれに備えることなどできるはずもない。
大恐慌に備える準備など誰もできはしなかったのだ。 パーマネント・プロスペリテイ一九二九年一二月にFVを大統領として迎え入れたとき、国民は「永遠の繁栄」に酔いしれていた。
これがいかに不健全な基盤の上に咲いた狂乱の花であったかを知る人は、ほとんどいなかった。 まさか一年以内に経済が破綻し、全世界が奈落の底に突き落とされて人類が地獄を見るの人がニューヨークの展示場に押しかけた。

その日の様子を『オンリー・イエスタディ』では、二○年代のその他の華々しい事件を列挙しながら、こう表現している。 「それは一九二七年の大事件の一つで、Rの大西洋横断飛行ほどスリリングではなかったにしても、SBの処刑や、Hm殺人事件の裁判やミシシッピ河の氾濫、ヘビー級の王座を賭けたDとTの対戦に迫る事件だった」。
一九一三年に六○○○万ドルだったラジオの売上げは、二九年に八億四二六○万ドルに。 それに伴って、二八年に八五・二五ドルだったRCAの株価は、二九年に五四九ドルにことになろうとは、誰が予想しえただろうか。
繁栄にうつつをぬかしていたアメリカが、国際社会に対して果たすべき責任を果たしていなかったことはたしかだ。 貿易額はイギリスを凌駕し、世界最大の資本輸出国となり、企業の利潤は労働生産性を上回る速度で上昇する中で、世界の金準備の四○%以上がアメリカに集まっていた。
そのような大国に成長した後でも、アメリカは国際連盟への参加を拒否し、法によって新たな移民を拒絶した。 国際的な金利格差の是正を求める欧州の中央銀行の言われるままに公定歩合を引き下げて、結果的に株の急騰を容認した。
マネーは欧州の債務国へは向かわずに、アメリカ国内の株式市場に投入されてしまったのだ。 最悪期は暴落の三年後に来た。
一九二九年十月の大暴落の後、株価は一直線に下がりつづけたわけではなかった。 十一月に入ると株価は回復しはじめた。

十月の暴落はおよそ一週間の出来事だったが、翌一九二一○年の四月までには、株価はほとんど元の水準に戻している。


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